生存バイアスなるもの [研究<雑>]
しかし、何か操作を間違って、全部消えました。つ、つ、つらいです。
でも、この話はどこかでしたいと思うので、ちょっと備忘録として書き留めておきます。
宝くじの高額当選を複数回当てた人がいるそうな。赤いものを身につけて買い、黄色いものとともに保管しておく、ということだそうです。そうすれば当たるのだそうです。
はっきり言って、そんな馬鹿なです。
これは宝くじだから、みんな、信じたり、信じなかったりでいいです。
では社会的成功はどうでしょう。7つの習慣、3つの行動、XXXの法則、とか本が売れますよね。
そんな馬鹿なですよ。
数百人に一人の成功者が、もっともらしく理屈付けした成功の論理は、生存バイアスかかりまくりです。
私はこうして恋人ができた、私はこうして子供のお受験に成功した、私はこうして会社を拡大させた、私はこうして痩せた、私はこうして5カ国語が話せるようになった、、、、、これらは失敗した人はものを語る資格はなく、成功者のみに語る資格があるというような、生存バイアスがかかりやすい文化のなかで、みなが聞きたいもっともらしい体験談を売る、という一つのビジネスとして成立しています。それはそれでいいのです。かくいう私も、その手の本をよく読んだりするので。でも成功してませんけど・・・・(笑)
ですが、失敗者は本当に全て成功者のようなことをしていなかったのでしょうなね。そんなことはないのですよ。同じ努力、工夫をしていても、あるいはもっと努力して、工夫していていも、それでも失敗した人たちはたくさんいるのですよ。全てのことが、そうだとまで言うつもりもないですが。
宝くじの成功体験と同じです。赤いものを身につけて、黄色いものといっしょに保管することをテレビで放映して、1000万人がそうしたら、1000万人が当たるのでしょうか? そんな馬鹿な、です。1等は1000万枚に1枚しかないのですから。そんな馬鹿な、なのですが、なぜかみんな真似をするのでしょうね。
この生存バイアスは、また取り上げたいと思います。今日は書いていたことが全て消えてしまったショックで、もう風呂にはいって寝ます。でも、何か人に訴えて大きなことをしたいならば、この生存バイアスが好まれることをすごく利用したほうがいいんでしょうね。
なんて、今日は少し酔っているので、もう寝た方がよいかもしれません。
ではおやすみなさい。
セミの鳴き声が・・・ [研究<雑>]
ところで、この夏、あちこち遊びに行きました。
この夏で二歳になった二女が、この夏に覚えたセミの鳴き声は・・・
ちゅうちゅうぱい?
ちゅうちゅうぱい?
でした。
実は、私たちは、このセミの鳴き声を「ツクツクホーシ」と覚えています。
この子は、舌足らずながら、それを「ちゅうちゅうぱい?」と覚えたようなのです。
「?」は語尾が疑問文のように上がっているイメージを表しています。
そう言われてみれば、そう聞こえないこともない。
そんな気がしませんか?
ちゅうちゅうぱい?
ちゅうちゅうぱい?
大阪はベンツ、東京はBMW? [研究<雑>]
大阪と東京に住んでみて、ふと感じることがあります。東京は人が多すぎます。疲れます。車も多すぎます。では、大阪へ帰れ、と言われそうですが・・・・東京は便利だし、公園がたくさんあるし、楽しい場所がいっぱいあります。難しい選択です。そんな話はこれぐらいにして、車の話をしたいと思います。
東京では、本当にBMWが多いと感じています。もちろん、日本車が多いのですが、それにしても輸入車としてはBMWが多い気がします。大阪では、これほど多くのBMWをみかけることはないでしょう。人口が違うから登録台数に差がでるのは当たり前なのですが、出会う確率としてBMWへの遭遇確率が高いという気がするのです。1日にかなりの台数を見かけます。
それでは大阪はどうなのか?というと、東京の人がしばらく住めば感じると思うのですが、BMWをみかけることは非常に少ないです。そのかわり、やたらとベンツが走っているような気がするのです。
これは私の勘違い、思い込みかもしれません。しかし、自分で車を運転しているとき、通勤しているとき、駐車場を歩いているときなど、車が好きなので、なんとなしによくみます。そういう私個人の感覚的なものですが、明らかに大阪はベンツ、東京はBMWが多い感じがするのです。
さて、どうなのでしょうか。都道府県別の車種別登録台数の統計などは、どこかにないものでしょうかね?
そういうものがあれば、東京都と大阪府で、
ベンツ登録台数÷全車種登録台数(あるいは輸入車登録台数)=ベンツ比率
BMW登録台数÷全車種登録台数( 〃 ) =BMW比率
を計算して比べてみたいものです。これは新規登録台数よりも、現に登録されている台数がいいですね。その方が街を走っている車の数に近いでしょうから。
もしそうならば、文化の違いなのでしょうか?
あるいは私の勘違い?
マスクの季節 [研究<雑>]
ところで、花粉症の季節になりました。
この季節には、いつも思います。あのマスクは何とかならないものかと。電車に乗っていると、マスクを着けている人が増えてきていることに気付きます。風邪の予防、花粉症対策など、理由は何でも良いのですが、あの白いマスクは何とかならないものでしょうか。
以前、「マスクの改革」というテーマで記事を書いたことがあります(記事はこちら)。
あれは昨年の3月でした。あれから約1年経ちますが、もちろん、誰も何もしませんでした。デザイン性の高いマスクの開発がなぜ進められないのか・・・・などと思いながら、ネット上を検索してみたら、、、、
結構、ファッション性、デザイン性に着目して制作されているマスクが存在していることに気付きました。そうだったのですね。すでに存在しているのですね。
では、街でそうしたマスクを身につけている人を余り見かけないのは何故でしょう。やはり、多くの人がマスクを近所の薬局やコンビニなどで買っているからなのでしょうね。ならば、コンビニで売れば良い。コンビニでおしゃれなマスクを売ればよいではないですか。ダメでしょうか・・・・
私は、実は、今週、鼻がむずむずし始めています。もしかすると、臨界点に達しつつあるのかもしれません。もし花粉症になったら、考えます。
出身地とは何だ? [研究<雑>]
出身地とは何でしょうか?
このブログの自己紹介でも出身地を書きます。略歴やその他、出身地を書く場面は意外と多いです。
私は、漠然と、「生まれ育ったところ」だと思っていました。
とすると、生まれたところ、育ったところが一か所、ひとつの市内、県内などであれば、答えは簡単です。
私の場合、生まれは場所、育った場所が違います。育った場所も複数個所です。ということは、ひとつの生まれ育った場所というものが存在しません。したがって、出身地=生まれ育った場所という定義が正しいならば、「回答不能」あるいは「あちこち」という感じになるのでしょうか。
ネット上でいろいろ検索してみると、同様の疑問、あるいは回答の仕方についての難しさを訴える声もたくさんあるようです。
さて、辞書を見てみましょう。
出身・・・「どこを経て現在に至ったか、ということ。出生地、卒業した学校、勤めたところ、社会階層などについていう」でした。「どこを経て現在に至ったか」ということならば、私の場合は、○○○、○○○など、あちこち行って現在に至った。これが正解ということになりますね。
しかし、これではいま一つです。答えが長すぎます(上記も○○○はそれぞれ場所を指しますが省略しています)。いったいどこが出身地なんだ? と聞かれそうです。そう聞かれたら、「出身地とは何ですか?」と聞き返す。そして「生まれ、育ったところだ」という答えが却ってきたら、「それならば、先ほど答えた内容の通りである」と言う。そういう感じでしょうか・・・・?それではやっぱり会話が続きませんか・・・
ある人は「生まれたところで良い」と言っていました。確かに、上の辞書で引いた意味の中にも「出生地」とあります。それならば、出生地を答えるのでしょう。ですが、親が里帰り出産をしたとします。そのとき生まれた子は、その里が生まれた場所です。しかし、それは里帰り出産だからであって、出身地として扱うには無理があるような気がします。
ある人は、「本籍地で良い」と言っていました。しかし、これは無理があると思います。結婚していなければ、通常、親の戸籍に入っています。しかし、既に親がその本籍地に住んでいないとき(大阪や東京に出てきた等)に生まれたその子供は、生まれても育ってもいない土地が本籍地になります。さらに、本籍地は結婚すれば変わり得ます。新しい戸籍を作るからです。しかも、その届け出住所は、一度も住んだことのない場所でもOKです。となれば、本籍地を出身地とすることは、実体との乖離が大きすぎると思います。
ある人は、青春、思春期を過ごした場所で良い、と言っていました。しかし、親が転勤族であったために、青春とやら、あるいは思春期を過ごした場所が複数ある場合、答えに窮します。
思いつきですが、いろいろと考えてみると、出身地として答えてよさそうなものは、「①生まれた場所、又は、②成人するまでに最も長く居住した都道府県(国外の場合は国)」ということでどうでしょうか? それでは不満?
それならば、、、、
A案・・・出身地はどこか? という質問に対しては、「生まれは○○県、育ちは▽△県や■×県です」と全て正確に答える。
B案・・・出身地はどこか? と問われたら、「日本です」「地球です」と答える。
C案・・・出身地に関する質問は、「話のタネ」にするための出発点であると割り切る。つまり、生まれて育った場所が複数ならば、生まれた地、育った地、印象に残っている地、どれでも良いから、「最も話のネタが尽きない(多い)場所」を答える。
D案・・・素直に「転勤族だったんです」と答えて黙る。
E案・・・一番長く暮らした場所を答える。
さて、どれが一番良いでしょうか?
私は、通常はE案です。しかし、相手を見て、AとDの組み合わせで話題を豊富にする努力をすることもあります。あの土地は●●だった、あそこは×▽で、ここは□◎なんです、という具合にね。その程度の問題だと割り切っています。住んだことがある場所ならば、どこでも良いということにしておけばよいでしょう。
しかし、その割に、出身地を書く場面が多過ぎますね。これは、何か、文化的な背景などがあるのでしょうか? なぜ人は出身地を聞きたがる、言いたがるでしょうか。それは大都市圏に多くの人が出てくるからでしょうか。だから、「どこから来たの?」と聞きたくなる。もし同郷であれば、話が盛り上がる。東京に住んでいても、なんとなく仲間に出会った気になる。そういうことなのでしょうか・・・
いずれまた改めて考えてみたいところです。
ブログ研究①子供の写真など [研究<雑>]
ブログを書いている人は本当に多い。その日に更新された記事を漫然と閲覧していても、キリがないほど、多くの記事が更新されている。かく言う私も、記事や写真をそれなりの頻度で更新してきたのだが(最近は忙しくて更新頻度が落ちているけども・・・)。
さて、ちょっと、このブログというものについて書きたい。
いつか、このブログには、本当の意味での「匿名性」があるかどうか、という点に関する技術的な問題について書きたいのだが、今日は、私が、どうしても抵抗があって出来ないことについて書きたい。それは、自分や家族の写真、それも顔がはっきり映っている写真を、何の加工もせずに、そのまま掲載しつつ、名前や呼び名まで書くことだ。これは別にブログには限らないけども。
この「写真やビデオをネット上に掲載する行為」には、リスクが付いて回るということを認識しておく必要がある。「リスク」とは、犯罪に利用される可能性、巻き込まれる可能性のことだ。
可能性は極めて小さいのかもしれないが、リスクが現実のものとなったとき、取り返しはつかない。そんなリスクを犯してまで、子供の写真をネット上に掲載する意義は何だろうか?
例えば、入園式の写真や映像をインターネット上に掲載することは、その子供を「公開」しているわけで、しかも、場合によっては、自分の子供だけでなく、他人の子供についても、どこの幼稚園に、どんな顔をした、どんな子供がいるのか、という情報を世界中へ向けて発信していることに等しい。
どのような人間が、どのような目的を持って、その記事を閲覧するか分からない。自分の写真を掲載する分にはかまわないのだが、ことに自分の子供の写真となると、恐ろしくて掲載できない。私は、これまで、実は写真をこのブログに掲載してきているのだが、手のみ、足のみ、後頭部のみ、後姿のみ、などのものに限り、顔は写っていないものを掲載することとしている。それさえも、ここ数日は、削除した方が良いのではないか、と考え始めているところだ。
子育てなど、子供の成長を記録し、それを多くの人に読んでもらいたい人もいるだろう。これまでもテレビ番組などで、幼稚園の入園式や家族の映像などが流れていたではないか。そういう反論もあるかもしれない。確かにそうだ。だから議論するつもりはない。私は、それが“いけないことだ”、“規制・制限するべきだ”と言うつもりはない。犯罪に巻き込まれるリスクが大きいと言うつもりもない。ただ、あまりにも素性が明らかになってしまうかたちで、子供の写真をネット上に「公開」することは怖い、と言っているだけ。私には出来ないと言っているだけ。
私は大袈裟なのだろうか・・・。 こういう発想は非常識だろうか・・・。
マスクの改革 [研究<雑>]
花粉症の季節だ。
私は花粉症ではないが、いつ発症するか分からない。
花粉症は、ある日、突然、発症するらしい。臨界点のようなものがあるのかな。
だから、私は、ときどき、外を歩くときマスクをして予防に努めている。
それで、唐突に思ったことがある。
なぜ、マスクと言えば、色は白で、形はゴム紐を耳にかけるタイプばかりなのか。興ざめだ。
街行く人たちを見てみる。
せっかくおしゃれをしていても、いいスーツを着ていても、病院でつけるような白いマスクをしては興ざめだ。誰かが、おしゃれなマスクを流行らせるべきではないか。
まず色だ。白は駄目だ。いや、白でもいいが、あの形が駄目だ。
色は、青、赤、いろいろあっていい。当然、柄があっていい。
次に形だ。マスクっぽくなくていい。
スカーフで口を覆っているような感じのデザインやら、マフラーのように首にまきつつ、口を覆う形でもいい。
いずれにせよ、花粉症がこれだけ社会問題になっているのだから、花粉症対策用のマスクとメガネのおしゃれデザインコンテストを東京でやるべきだろう。きっと一つか、二つ、よさそうなデザインのものがあるはずだ。いっそのこと、世界的に有名なデザイナーたちを集めて、マスクショーをやってみてもいい。
それぐらいのことは、国がスポンサーになってやっていい。
なぜなら、花粉症は、国策の失敗によるものだからだ。
もちろん、いいデザインが考え出されても、売れなければ意味がない。だから、国策として、政府が販売を支援していい。あるいは、経団連などの会長企業などが、スポンサーになってもいい。
いつまで、われわれは、あのように無機質な白で、服や靴とまったくマッチしないマスクや花粉症用メガネを付け続けるのだろうか?
花粉症でなくても、付けたくなるようなマスクを考えるべし。
アイデアのある人、よろしく。
では、おやすみなさい。
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